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【やまゆり園事件】(『シティライフ』令和2年3月14日号掲載)

 間もなく「津久井やまゆり園」で利用者ら45人が殺傷された事件の判決が出ます。この件についてライターの渡辺一史氏は「『入所者は生きる意味が無い』という被告の主張は、生産性の有無で人の価値を測る現代社会では誰もが抱きうる」と述べています。
 生産性…一体私にどれだけの生産性があるのでしょう。又いつまであるのか、失ったらどうすればよいのか。考えるのを止めて被告を極悪人だと斬り捨てれば気は楽ですが、果たしてそれで良いのでしょうか。
 私はなぜ生まれ、今生きているのか。これからも生きる為なら他の生き物の命を奪い続けて良いのか…正直わかりません。
 釈尊は、全てのいのちが等しく尊いとおっしゃいます。
 ならば被告の命も尊いのです。
 このような いのちの問題の答えは煩悩を抱えた人間には出せまい。それが悟れし仏の見立てです。命を問うほどに苦悩に沈むしかない私をすくうに、悟らしめるより他ないと見抜かれたのが仏でした。その真意を伺いつつ、いのちの問題を共に考え続けて参りましょう。

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【わかってる!】(弘教寺だより 令和2年2月号掲載)

 血圧を時々測っています。測る際には「測り誤りの無いように」両腕で何回か測っていました。すると2回目3回目の方が低い数値が出ます。こっちが正しいのだろうと判断して安心していましたが、実はこれは加圧に反発して硬直した筋肉等が、だんだん慣れてくる為だそうです。ですから低い数値の方だけではなく、2回測って平均を取るのが正しいそうです。
よく測る数値は他に体重や体温などがありますが、想定外の数値が出ると、「これ、器械が壊れてるんじゃないの?」と、つい思ってしまいます。いつだって自分は正しいのです。
 そして基準を知ってはいて、自分の身体がその数値を外れていても、週刊誌広告に「上の血圧140は大丈夫」や「BMIは高めの方が長生き」などの文言を見ると心躍り、笑顔になります。私は自分に心地良い言葉が大好きで、それらは自然に信じます。
 「一番深い闇は『わかっている』という我が思いである」…あるお寺の掲示板より。「私は正しい。私はわかっている」そんな闇は光に出遇わねば知ることが出来ません。そして闇は光に出遇った瞬間に打ち破られます。いえ、もう私に阿弥陀様の光明は届いているのです。

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【あり得ない】(『シティライフ』令和2年2月8日号掲載)

 52歳の漁師さんがピアノの難曲を聞いて発奮し、一日8時間7年間を掛けて独習し、演奏をピアニスト フジコ・ヘミングさんに披露するという番組が放映されました。見ている当方も感動です。普通ではあり得ないことでしょう。
 そして仏様の中であり得ない・出来ないことを成し遂げたのが「阿弥陀仏」です。何をか…煩悩より生じる苦悩から私を解放することです。全ての仏様は一切衆生の救済を誓われますが、煩悩に任せての暮らしに溺れ、このままが良いと思う私のすくいはあきらめざるを得ませんでした。
 ただ阿弥陀という仏だけは、煩悩の存在に気付かずすくいも求めないこの者を何とかしてやりたいと願われたのです。そして必要な修行の全てを私に代わって成し遂げて下さいました。だから私は必ず仏と成らせて頂くのです。
 老病死の事実を知りながらも無視し続け、それらに打ち勝つことのみを願う私。結局は敗北し命終えていく私を心配してこそ、何とかしてやりたい。それが、阿弥陀の大慈悲心です。

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【足の長さ】(弘教寺だより 令和2年1月号掲載)

 「短いけれども足なんだよ 短いものでも足なんだよ」とは『見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ』(詩・金子みすゞさん)が脳裏にあって…ふざけてしまい申し訳ありません。坊守がパッチ(ズボン下)を買ってきてくれました。Mサイズを安売りしていたそうです。その前にSサイズを定価で買ってきてくれました。買う人の少ないサイズは品も少なく、売り出しにならないのです。Mパッチと私の脚の長さを比べて笑えてきました。そして溜息が…。もっと足が長ければ買い物にも苦労しないのにと。
 もしかすると私も足の長い人生を歩めたのかも知れません。でも足の長い人生が必ずしも良い人生、幸せな人生とは限りません。足の長い人生も、足の短い人生もどちらも尊い人生です。そしてどちらも大変な人生です。
 でも「やっぱり足の長い人生が良かった」と思ってしまう私がいます。『そんなお前だからこそ可愛い。見捨てられぬ』と阿弥陀様。昼間の星も、地中にある冬のたんぽぽの根も、そして御仏の慈しみのお光りも眼には見えません。でも確かにあるのです。…今年もそんな阿弥陀様を頼りに生き抜かせて頂きます。

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【ウソ】(『シティライフ』令和2年1月11日号掲載)

 「この子はウソがつけません。何でも思ったままを話しちゃうんです」…障がいのある息子様をお持ちのお母さんがおっしゃいました。
 普段、私達は思ったままを口に出さないようにします。口にすれば気まずい思いをすることを経験的に知っているからです。だから思ったこととは全く違うことを言うのは日常茶飯事です。おべんちゃらとも言いますが、つまりは「平気でウソをつく」ということです。「健常者」は「ズル賢い」のでしょう。
 歳を重ねるうちに「両舌悪口妄言綺語」(二枚舌を使い、悪口を言い、うそを語り、言葉を飾りへつらうこと)が上手になりました。これは苦を生み出す行為=十悪のうちの四悪です。
 必要なウソはあるでしょう…生きていく為に。結果、心や口で自ら苦しみの種を蒔くのです。「辛いか苦しいか。わかるぞ、その苦悩が…」そうおっしゃる仏の慈悲心を有り難く頂き、御仏と共に本年を歩み出しませんか。

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【夕日】(弘教寺だより 令和元年12月号掲載)

 今の時期は夕日が綺麗に見えますね。なぜ夕日はあんなに赤く大きいのか…実は大きさは昼間の太陽と変わっていません。夕日は手に五円玉を持ち、腕を伸ばして覗いてみるとその穴の大きさとほぼ同じです。割合と小さいのです。また赤く見えるのは…夕日は斜めに差し込むため、昼間より空気の層を通る距離が長くなり、青色や青色に近い光が散らばって失われた結果です。その散らばった光はどこへ…それが空が青い理由だそうですよ。
私達は目に見えるものしか信じません。逆に目に見えるものは信じるということです。夕日は大きいし、赤いのだと信じています。
 見せかけという言葉があります。外見、うわべの意味です。見ているものが見せかけのものでないか、信じられるか、頼りになるものか…とても大事なことですが、それらを判断するのはこの私。そして私の側にその判断を下せる能力があるのかどうかは大事な観点です。
 仏様を判断の基準にするとは、仏を真実・本物と頂くことです。それは私を判断の基準にしないということで、自分を真実とはみなさないということです。やっぱり夕日は赤くて大きいと思う私だ…と認めることです。

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【古いけれど…】(『シティライフ』令和元年12月14日号掲載)

 仏教って2500年も前の教えで、しかも「あなたは歳取って死んでいくよ」だって。ウケないわけです。なぜなら私は人間。新しいもの好きで、しかし変化を好みません。このままでいたい…。
 今、私は人生をそれなりに楽しく過ごしている。でもそれは他人様の苦悩を見て見ぬ振りをしているから、またこれから否応なく経験する自身の心身の変化に知らぬ振りを決め込んでいるからではありませんか。
 仏法は真実なる鏡として私の本当の姿を見せてくれます。見ても何ら変わらないなら見たくないのですが、この身からは逃げられず、ならば現実は直視致しましょう。
 頑なな心を持つ私も「あなたの人生を一緒に生き、支えていくよ」とおっしゃる仏様の御心を受け取れた時、日々変化する身体を含めた私そのものを受け入れられます。そこに私が私として生き抜ける道が開けるのです。古い教えが今の私にピッタリ当てはまることを実感するのです。

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【ため息】(弘教寺だより 令和元年11月号掲載)

 最近、坊守から私は「ため息」と「独り言」が多いと指摘されました。昔からですよ…この欄(『坊さんの独り言』)の「タイトル」になっているくらいですから。
ため息はなぜ出るか…心配事や不安があると、呼吸が浅くなったり止まることがあり、ため息をつくことで元のよい呼吸に戻ろうとする、そんな身体の自然な働きなのだそうです。ため息は、息を吐く時間が長くなり腹式呼吸となって血流も回復。ため息はストレスも吐き出せてまさに一石二鳥…健康の為にもどんどんため息を吐きましょう。
 大体、私がため息をつくときは悩んでいるときではなく、その後です。つまり辛さを受け入れた姿と言えます。極端に言うならば、ため息は「苦悩受諾の儀式」なのです。
 もっとも、ため息など出ず、「やらかした!」「やってられない!」といった愚痴・独り言のオンパレード状態もあります。そんな時にこそ御念仏なんですよね。仏様を忘れている私だからこそ努めて念仏申しましょう。私が仏を忘れても、仏は私を忘れない。「頼ませ、任せさせてすくう」とおっしゃる仏様。私が仏を信じないことを見抜いてのおすくいでした…正に唯一無二・天下一品のお念仏です。

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【災害】(『シティライフ』令和元年11月9日号掲載)

 度重なる台風・水害により、被害に遭われたお方々に心よりお見舞い申し上げます。
 巨大台風への恐怖心から祈るような気持ちになったお方もいらっしゃるでしょう。でも結果として大変な被害に遭った。「神も仏もあるもんか」今はそんなお気持ちかも知れません。普段は神仏など信じることはないけれど、困ったときに思い出し無理な願いを掛け、それが叶わないと恨み節まで出てしまう私…。
 この世を「娑婆(しゃば)」=堪忍土と申します。私達が身の内の苦悩を、また外よりの苦(寒暑風雨等)を受けて堪え忍ばねばならない世界です。そしてだからこそ聖者も疲労・倦怠を忍んで私達を教化し続けて下さるのだそうです。その聖者を浄土真宗では阿弥陀仏、親鸞聖人と頂きます。
 自然の猛威には為す術なく、悲嘆に暮れるしかない私に仏はずっと寄り添います。私の苦悩はそのままが仏の苦しみとなる…そこまで慈悲深い仏様が御一緒下さいます。

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【被災に寄り添う】(弘教寺だより 令和元年10月号掲載)

 此の度の台風による被害は如何でしたでしょうか。被災されたお方には改めて心よりお見舞い申し上げます。
 台風の後、多くの門徒さんに被害状況を伺いましたが、「被害は殆どありませんでした。きっと仏様が守って下さったんですね」とおっしゃるお方が複数いらっしゃいました。もし本当に仏様が守って下さったなら、被災されたお方は仏様が守って下さらなかったことになります。手を合わせていなかった、信仰が足りなかったからだと言われそうです。実際は県内の浄土真宗寺院も被災しています。
 もし、仏様が台風を物ともしない摩訶不思議な力をお持ちとして、その力を私に向けて使うことがあれば…震え上がりますよね。もう仏様の言うことを聞くしかありません。
 仏様が守って下さるとは、私に寄り添い続けて下さるという意味です。私がどんな悲惨な状況に追い込まれても、世界中を敵に回すようなことになっても、仏様だけは私から離れず、私を支えて下さいます。
 「寄り添う」…ここです、仏様のおはたらきの真髄は。そんなおはたらきは素直に頂いた方が、生き易いことだけは間違いありません。

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