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【人生は甘美である】(『シティライフ』令和2年8月8日号掲載)

 釈尊は最期の旅にて「この世は美しい、人生は甘美である」とおっしゃいました。しかし仏教の根本は人生「一切皆苦」ですから、一見矛盾するようです。
 この点を仏教学者の中村元師は、「『甘美』とは味わうほどに深みがある」の意だとおっしゃっています。「人の命は尊く味わい深いものである」…釈尊は八十歳になり、人生を振り返ってそう感じられたのです。
 悟りを得た釈尊だからこそのお言葉かも知れません。でも仏教には人生をそのように受け止めさせるはたらきがあることは間違いありません。
 我が身は何ともなりません。「老病死」丸抱えで逃げられません。我が心も煩悩…欲望尽きぬことから苦悩からの解放も望めません。それでも尚、人生は味わい深いものなのです。
少なくとも人生の何たるかがわかっていない私が、人生を決め付け、投げ出してはならないのだと思います。否、それはあまりに勿体ないことです。仏となられた先祖方も「だから生きるのだ。私も一緒だよ」とおっしゃっておられます。

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【自力聖道門と念仏道】(弘教寺だより 令和2年7月号掲載)

 橋下徹元大阪府知事が高学歴ニートの若者に対して「熱血授業」を行う番組が放映されていました。その中で橋下氏は「君たちが私の年になるまで25年有る。私はその25年間を全財産を出してでも買いたい」と発言しました。スゴイと思いました。25年あれば今より優れた人間となれる。充実した人生が送れるという自信があってこそでしょう。
 要するに、私は生きている間は努力し続ける、考え続け、行動し続けるという意思表明です。乱暴で短絡的かも知れませんが、これこそ「自力聖道門」ではないかと思いました。
 「できる」「やれる」の思いを持ち、努力し続ける…これがその生き方です。本当に素晴らしいと思います。
 で、私はどうか…すみません。25年間さかのぼって又苦労するのはちょっと勘弁して欲しいです。怠惰なる私の偽らざる思いです。
 素晴らしい生き方はある。知っている。でも私には歩めない。このことをしっかり認めたとき、自分の何ともならなさが浮かび上がります。私は極めつけの凡夫だからこそ阿弥陀仏が心配なさるのです。だから阿弥陀は私をなんとかすくおうとはたらいて下さるのです。

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【道徳と宗教】(『シティライフ』令和2年7月11日号掲載)

 道徳とは「生命を大切にする心や他人を思いやる心、善悪の判断などの規範意識を育てること」であってとても大切なことです。
 道徳は「皆が共に生きていく為の決まり事」だといえます。「こうしましょう」という規範です。しかし道徳を守って生きていれば問題は起きないかといえば、思わぬ事故に遭うことも、ケガをすることもあります。道徳は社会で生きる為に必要ですが、それだけで充分だとはなりません。
仏教に則って生きたらどうなるか…答えは用意されています。それは「老いて病んで死ぬ」のだということです。身も蓋もないとお感じかも知れませんが、ウソはありません。知りたくはないが事実・真実です。
 人生の答えは道徳ではなく、宗教にあります。私はどんなに正しく生きても死から逃げられない。事実から生じる苦悩から解放される為には身の事実を受け入れるしかありません。私に死んでも滅びない仏のいのちが約束されていることを頂き、今の我が命を受け入れ、超えていく。その道をこそ仏道と申します。

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【浄土真宗の信仰】(弘教寺だより 令和2年6月号掲載)

 本願寺派住職・松本智量氏がカルト(特定の人物等を熱狂的に崇拝する集団)について、「ひとつの正しさを頼りにして、他の矛盾や誤りには目をつぶる人々」であると述べています。そして、その「ひとつの正しさ」とは『自分の判断』なのだそうです。
 私達は、きちんと自分で判断することが求められます。皆がそれぞれの利益を求める社会において人の言いなりでは全てを奪われてしまう可能性があり、ある面で正しいことです。しかし、自分の判断が唯一正しいかどうかはわかりません。ある意味、皆が『正しいのだろう』と曖昧なままに判断・行動しているのです。ですから、「(教祖の言うことは絶対に正しいと思う)自分の判断が誤っているかも知れない」という意識を持ち続けることは大切です。正しさを貫くのではなく誤りに気付いたら柔軟に対応することが大切です。
 浄土真宗の信仰とは私が仏を信ずることではなく、「仏様に任せる」即ち「私の思いを離れる」ことです。「仏様が絶対正しいと言えるのか?」の問いには『どうあれ、私には正しい判断が出来ないので仏様にお任せします』と答えます。ここが浄土真宗信仰の難しさです。

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【どんなときも御一緒】(『シティライフ』令和2年6月13日号掲載)

 この先、一体どうすればよいのでしょうか。
 出来ることがあればやり抜きましょう。でもすぐに「出来ない、やりたくない」と思う私です。私は変われないし、変わりたくないのです。頑なです。
そんな私を何とかしてやりたくて、「煩悩だらけのこの私を、さとりのいのちに変えよう」と決意されたのが阿弥陀という仏様でした。変われない私を、仏様のはたらきで尊い仏へと変えて下さる…成仏は我が命終えた後ではあるが、もうそのことは既に定めて頂いている。そのことを有り難く受け止められますか。
 そんなの信じない…ならば、自分を信じてよく考え、行動しましょう。出来ない・やらないの選択肢はありません
 実はどうあれ、阿弥陀仏は私に御一緒下さいます。私のことが心配だからです。コロナがどうなろうと私にはこの自分を生きていくしかありません。そんな私は仏に支えられてこそ安心出来、頑なな我が心もほぐれていきます。「出来る範囲で精一杯」の本物の人生が恵まれます。

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【コロナウイルス】(弘教寺だより 令和2年5月号掲載)

 今回のコロナウィルスは私達の生活に言いようのない不安と恐怖をもたらしました。
 感染それ自体の恐怖もありますが、それ以上に人とのコミュニケーションが遮断され、いつまでこの状態が続くのかわからないまま生きることを強制される…そんな不安が大きいと感じました。多くのお方が心塞がれ、辛い思いをなさっていることでしょう。しかし、事実としてこの状態はウィルス出現の前も、また感染騒動が収まった後も、何ら変わらないのです。私の命がいつまであるのか、いつどんな形で命終えるのか、そんな私はどうすべきか…誰もわからないまま生きています。ある意味不安を抱えている方が「正常」なのです。
 ウィルスがなくなったらまた元に…それは幻想かも知れません。もう社会は、世界は以前の状態には戻れないと思います。そんな時代を生きる私は、少なくとも今の命どう生きるべきか…そこを問うていきましょう。コロナウィルスはある意味、私にしっかり生きよ、生き方考えよの催促をしているように思います。自分で考えても解決しない問いに、阿弥陀仏は答えを用意して下さっています。「我に任せよ。必ずすくう」とおっしゃっています。

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【心配するな】(『シティライフ』令和2年5月16日号掲載)

 一休禅師はどうにもしようのない状況に陥った時これを紐解くようにと御遺言され、結果そのお言葉とは「なるようになる。心配するな」だったそうです。為すべきことをした上ならば、むやみに心配する意味も必要も無いということでしょう。
 私達の置かれた状況は本当に厳しく、先行きもどうなるのは分かりません。不安は募る一方ですが、不安の中に物事の解決方法はありません。
当たり前のようですが、先ず自分の出来ることをしっかりと行う。それ以上は出来ないのですから、後は思い悩むことを止めましょう。
 御仏は「不請の友」になるとおっしゃいます。こちらから望まずとも友になって下さる存在です。私から頼むより前に、私に注がれる慈愛が存在する…そのことに気付けたとき、周囲が違って見えることでしょう。「私はいつもあなたと共にある」とおっしゃる仏様と、今為すべきことを怠らずに精一杯をやり抜きましょう。そこにこそ後悔無い真の人生が開かれます。

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【0点でもすくう】(弘教寺だより 令和2年4月号掲載)

 この春から新しい生活をスタートされるお方もいらっしゃるでしょう。期待に胸一杯ふくらませて。あるいは失意の中で…。
 阿弥陀様は「0点でもすくう」とおっしゃいます。「これ、子供が読んだらどうするの? 変なこと書かないで下さい」…お気持ちはお察しします。誤解なさらないで下さい。「0点でも良い」とは言っておりませんし、もし0点でも良いと本心から思えたら、それは悟りです。0点じゃイヤだし、出来れば100点を取って誉められたい、人に自慢したい、いえ、純粋に自分の心が100点を欲しているのです。そんな心を皆が持っています。それを煩悩と申します。煩悩あるが故に100点を取りたいと思い、煩悩あるが故に遊びたい、怠けたい、メンドくさいと思うのでした。
だから阿弥陀仏は「すくう」と誓われたのです。0点でも100点でも我をすくうとおっしゃるのです。無条件なのです。
 「勉強する・しない」はあなたの問題だろう。勉強はあなたの仕事だろう…と阿弥陀仏。おっしゃる通りです。正論に納得しながらも、でもなかなか出来ない。そんな私が心配で放っておけず、心底愛おしんで下さる仏様です。

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【新型肺炎】(『シティライフ』令和2年4月11日号掲載)

 新型コロナウィルスにより世界中が大変な災禍に見舞われました。犠牲者の方方に哀悼の誠を捧げます。 感染防止の為、「ぎゅうぎゅう」(密集場所)、「むんむん」(密閉空間)、「がやがや」(密接・近距離での会話)を避け、手洗いや消毒を心掛けましょう。
 何よりも正しい知識を持って、節度ある行動を取ることが肝要です。漠然とした不安に駆られ、やみくもにウィルスを恐れて、心の健康を損なうようなことがあってはなりません。
 こんなときだからこそ、
連帯・連携が大切です。他の人も自分と同じように不安を感じ、困り、苦しんでいることに思いを致しましょう。
 浄土真宗『私たちのちかい』に、「自分だけを大事にすることなく 人と喜びや悲しみを分かち合います 慈悲に満ちみちた仏さまのように」とあります。
 私に出来る精一杯を…先の感染防止策を励行した上で、仏法でいう心施(しんせ)に努め、思いやりを持って人に接しましょう。今だからこその優しい気遣いを心掛けましょう。 

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【農耕生活の功罪】(弘教寺だより 令和2年3月号掲載)

 今から約1万年前、人類はそれまでの狩猟採集生活を農耕生活へと転換しました。その結果、「安定した食糧の確保が出来、定住する」「子供を産み育てやすい環境となる」「爆発的に人口が増える」「暮らしが豊かになり村落が拡大して都市化し、文明を生み出す」ことになったのです。人類の素晴らしい進化・発展だ…と私は思っていました。
 でもその結果起きたのは「炭水化物摂取による虫歯の発生」「農耕・家畜の世話の為の労働時間の著しい増加」「洪水・虫害等災害の発生」「作物の貯蔵管理の手間の増大」そして「家畜化した動物由来の感染症(はしか・結核・ペスト・コレラ等)発症」…「縄張り意識による侵入者排除のための戦い」などでした。
 現在新型コロナウィルスが猛威を振るっていますが、その大元こそは農耕生活を選んだことだったのかも知れません。
 人間は知性を備えた素晴らしい存在です。でも、その知性こそが新たなる問題を生み出し、自らを苦しめ続けているように思えます。それがわかっても止まることは出来ません。人間だからです。仏様が心配される理由は私の側にごまんとあることを実感します。

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