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【願い事】(『シティライフ』令和3年1月9日号掲載)

 もう初詣は済まされたでしょうか。いろいろな願い事をされたかも知れませんね。無病息災、家内安全、交通安全、病気平癒、合格祈願、大願成就など願いは尽きません。
 でもそれが「叶うかどうかは神仏次第」ではあまりに心許ないことです。「自分は何も出来ないが願い事は叶えて欲しい」…もしそんな思いなら「虫が良すぎる」と神様に呆れられそうです。
 年頭に願い事が具体的になったなら、一年掛けて御自身でそれを実現させましょう。その為には目標に向けて計画を立て、日々コツコツと努力、精進を重ねるしかありません。
 結果には必ず因と縁とがあり、それを仏教では因「縁」生「起」=縁起と申します。好ましい結果を求めるならば、その因・縁も自身の努力で生み出し、掴むべきでありましょう。
 そして又「願いを持つことの出来る」今の暮らしが有り難いものであることに気付き、感謝をなさって下さい。感謝こそが日々の努力の原動力です。仏様が精一杯生きるあなたを慈しみ寄り添って下さいます。

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【すくいの主は阿弥陀】(『弘教寺だより』令和2年12月号掲載)

 『ハスノハ」という、ネット上での相談サイトでお悩みにお答えしています。そのご縁で時々お悩みが直接電話で寄せられます。
 感謝されることもあるのですが、先日は「もう結構です」とおっしゃって先方から切られてしまいました。その時は何とも言えない気持ちになりましたが、でも今回は自身で深く考え、反省する機会に恵まれたと感じます。
 ご相談が「一般論からすれば、おっしゃっていることは受け入れられない」ことはあっても、そのことを指摘すれば、お相手を否定することにつながります。「傾聴」という言葉があります。「しっかり聞く。否定せず聞く。寄り添って聞く」…ということです。つい仏教を振りかざし、「教えましょう」的態度を取ってしまいがちな私にはなかなか難しいことです。
 でも、傾聴・共感することがとても大切ですね。そして、御自身に「解決への道(思い)」があれば、その後押しをする。結果うまく行かなければ、又その時相談して下さいと告げる…僧侶にはそこまでしか出来ません。
 本当のおすくい(解決)は阿弥陀仏の側にしかありません。そのことをお伝えし御一緒に頭を垂れて仏の教えを請いたいと思います。

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【自力と他力】(『シティライフ』令和2年12月12日号掲載)

 「他力」は「自力」の対語として用いられ、自分で為さず他者任せにするという意味でよく使われます。
 自力は素晴らしいことです。例えば、対人関係のお悩みにおいては「相手は変えられない。だから自分が変わるしかない」と申します。自分を見つめ、自分を正していく。自分の方が変わればよい。その通りです。でも出来ますか。
 仏教では、執着を離れたところが悟り(安らぎの境地)であると申します。その悟りを得るため、「自分で自我への執着を離れようと努める」のが自力です。尊く厳しい道のりです。
 「自力」の生き方が出来るお方を尊敬します。でも出来ない人は、いえ私はどうなのかという問題です。わかっていてもやらず出来ず、苦悩が増すばかりなのがこの私でした。
 そんな私に阿弥陀仏のお力(他力)が届いて下さいます。「我に任せよ(苦悩を手放せ)」と…。自分で現状変更が出来ない私は、苦悩を手放すより他に苦悩からの解放はありません。苦悩を手放さしめる力、それが他力ということです。

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【お金があれば…?】(『弘教寺だより』令和2年11月号掲載)

 お金さえあればなあ…そう思うことは「ある」と思います。お金で解決することはたくさんありますしね。でも、今、お金はあるんですよね…自分の希望額よりは少ないだけで。そうするとお金があったら…結局、もっと欲しくなるだけだと気付きました。
 実際お金では私の根本問題は解決しないのです…老いも病も死も。お金の力でそれらが先延ばしできるかも知れませんが、かえって人生の辛い時間が長くなるだけということになりかねません。
 「渇愛」と申しますが、のどが渇いて多くの水を求めるように私には欲望が尽きません。私は欲しがり過ぎなのです。求め過ぎなのです。結果として得られ過ぎなのです。それでも足りないと苦悩し過ぎなのです。ドラマのタイトルにもありましたが『私はどうかしている』のでしょう。満足を知らない私は自らの身体の老いや病、果ては命まで思うようにしたくて、出来なくて、辛くなるばかりです。
 私の命の根本問題は、既に阿弥陀様が「往生成仏」として解決して下さっています。それはお金の有る無し関係無しです。それでも不満ですか…やっぱりお金追い求めますか?

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【すくいの目当て】(『シティライフ』令和2年11月14日号掲載)

 「もう、生きるのが本当に辛い」…そんな気持ちになることもあるでしょう。
 『「あなたが大切だ」 誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける』…かつての公共広告機構のCMです。でもこの言葉を掛けてくれる人が近くにいなかったなら…。
 親鸞聖人は生きとし生くるものをすくうという阿弥陀仏のおすくいを、ただ御自分一人のためであったと頂かれました(歎異抄)。
 人は弱き存在です。また誕生も死も独りです。釈尊はそんな人生を「一切が苦しみである」と説かれました。それでも命ある限り人は生きるのです。
 苦難の人生を歩まねばならない私を心配して、何とかすくいたいと願い、その願い故に我をすくうはたらきと成り、御一緒下さっているのが阿弥陀仏です。
 生きることに苦悩するのは、真剣に生きている証です。そのような者こそが仏様のすくいの目当てでした。親鸞聖人は仏様の「あなたが大切だ」の声をしっかり受け止めたお方。だからこそ苦悩多き人生を力強く生き抜かれたのです。

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【年月を経ると…】(弘教寺だより 令和2年10月号掲載)

 年月経つと具合の悪いところが出てくるのは身体も「寺」も一緒なんですね。築二十年を過ぎて、特に水回りに不具合が出て、「混合水栓」3箇所を一時に交換しました。ネットで水栓を取り寄せて、素人の交換作業です(坊守にも随分頑張ってもらいました)。
 特に大変だったのが台所の水栓で、固着して外せないのです。昔の車屋さんのように仰向けでキッチンに潜り込んで、金槌・ノコギリを使っての当に「破壊」作業です。外せなければ、取り付けられず、このままでは水が使えない!という焦りの中で、大汗をかいての作業となりました。水栓の交換は取り付けより取り外しが大変だと痛感しました。
 私達の心も同じかも知れません。長年の人生で凝り固まった既成概念が淀んで溜まって一杯になっているのです。これを取っ払わないと新しい教えの入ってくる余地がありません。もうこの歳だし、新しい・難しい教えなんか要らない…でもそれではせっかく今生きているのに、本当に勿体ないことです。仏教は決して難しい教えではありません。私の本質に気付かせて下さる尊い教えです。「あ、そうか」という気付きが人生の本当の喜びになるのです。

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【任せる】(『シティライフ』令和2年10月10日号掲載)

 「状態はよくありません…私も精一杯手を尽くしますので頑張りましょう」  思いがけない医師の発言。こちらは「わかりました。先生にお任せ致します」以外言葉が見つかりません。任せるとは思いきること。任せきったとき心の重荷から解放されます。結果、自然と頭が下がり医師に手が合わさるのです。
 そして治療の甲斐あって「驚くほど良くなっています」の言葉が聞けたなら、有頂天。そうなると頼りにした医師を拝むこともなくなります。任せることを止め、「自分本意の」元の暮らしに戻るからです。
 浄土真宗で仏様に頭を垂れ、手を合わすのは「任せる」ことです。自らの執着心を離れ、心の重荷から解放される行為なのです。
 お念仏のみ教えにおいては、我が命終わりて後を阿弥陀仏にお任せすることを説きます。それは避けられない我が死から逃げることなく、真正面から受け止めさせる為でした。死は辛いのですが、命終後を仏に任せきれたとき、初めて我は今の恵まれし命を精一杯生き抜けるのです。

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【大丈夫…じゃない】(弘教寺だより 令和2年9月号掲載)

 阿弥陀仏は私に念仏申さしめるお方です。念仏申すとは感謝申すことであり、私に感謝の人格となることを願っていらっしゃいます。
 「いや~言われなくても私は普段に感謝していますよ。あぁ有り難いと思い、人にも伝えていますよ」…でも、それは自分の機嫌が良いときだけではないですか。まるで温泉に浸かって「極楽、極楽」と声が出るのと同じように「有り難いなあ」とつぶやいていませんか。機嫌の良い時は誰だって「良い人」になれるのです。
 疲れ果て、気分が落ち込んでいて、「もうイヤだ~」と思いながら御飯を食べる…その時、自分の為に犠牲となった多くの生物に感謝出来ますか。その食事のために捧げられた多くのお方のご苦労に感謝出来ますか。私には出来ません。考えてみれば身勝手でどこまでも自分本位の考え方しか出来ない私です。そんな私に阿弥陀は寄り添います。心配でならない。あなたを支えていこう、導いていこうと…。
 そうおっしゃる仏様に「いえ、結構です」と返答さえすることもなく、その存在を忘れて無視し続ける私です。…さらに「私は大丈夫ですから」の我が返答こそが、仏様に「あなたこそが大丈夫じゃない」と思わせしめるのです。

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【高所にたどり着いたが…】(『シティライフ』令和2年9月12日号掲載)

 ネコが電柱に登ってしまって降りられなくなり、人間に救助される映像を見たことがあります。しかしこれはネコだけの行動でしょうか。
 私達は優秀な頭脳と弛まぬ努力・労働によって、素晴らしい社会を築き上げました。しかしその結果、皆が豊かで幸福に暮らしているかといえばどうもそうでも無いようです。
環境汚染・格差貧困・資源・食糧・人口増加等、一生懸命に生きてきた結果、なぜか問題が増えていて、しかもどれも解決が難しいものばかりです。
 さらなる高所を目指して必死に登ってきてはみたけれどさすがに危ない、元居た場所に戻らなきゃと思う。で、どうしたものだろうか…と悩んでいるのが私達です。ならば、高所のネコ同様に自分達の心配をすべきでありましょう。
 世の多くの問題は人間の煩悩にその根本原因があります。煩悩の対極が仏の悟りの智慧ですから、仏法にこそ我の往くべき道を教えて頂きましょう。そこにどっしりと地に足のついた真実人生が恵まれます。

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【苦悩の人生を生きる…】(弘教寺だより 令和2年8月号掲載)

 全身の筋肉が衰える「ALS」という難病患者の嘱託殺人事件が発生しました。ご本人は眼球の動きによって意思表示をされており、ブログに「最近唾液が飲み込めず、一日中むせて咳き込んでいる。すごく辛い。早く楽になりたい…」と訴えています。
 仏教の上からは「命は自分の所有物ではなく、従って自分の意志で命をもてあそんではならないのである」と申し上げます。
 ただ「自分がこの方の立場でもこの言葉を素直に受け止められるか」と問われると自信がありません。発症後九年が経ち、24時間ヘルパーに支えられてのみ生きられる、「咳き込みと吸引とで一日が過ぎる」暮らしに自分は耐えられるのかということです。
 結局、答えは出せないのかも知れません。いえ、答えを出してはいけないのだと思います。生きていたい。でも生きることが本当に辛い。その狭間で揺れ続けるのが、病気の有無を超えて人間の本質でしょう。
 仏様は私の苦悩の全てをお見抜きです。その上で私をそんな苦悩からなんとか離れさせようとおはたらき下さっています。その為に私の心の叫びを聞き続けて下さっています。

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