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【結局、仏教って?】(最終回)(『シティライフ』令和3年8月14日号掲載)

 仏教とは、本当の人生を歩むための御教えです。
 「宗教とか仏教とか、つまらん」とのご批判もおありでしょう。ただ批判されるならばこそ、もっとよく知って頂きたいのです。
 宗教など要らぬとおっしゃるなら、自分を信じて生きることになります。当然自らの行動の正当性も自分で判断するのでしょう。それを「自分の生きる道」と定めるならば、随分と危うい気がします。
 仏様とは「鏡」です。つまり「私に客観的な視点を恵んで下さるはたらき」と申せます。私のものの見方にはどうしても自分中心の思いが入り込みます。結果、やはり自分は正しいとなり問題が生じるのです。
 仏様はあくまで真実なる視点で私の行動をご覧になります。その上で私に事実を明かし、私を導いて下さいます。そんな仏様の御心に出遇えたときに「お恥ずかしい」また「有難い」という気持ちが生まれるのでした。そこから感謝の日暮らしが始まります。
 これまで長く本欄を御読み下さいましたことに厚く御礼申し上げます。

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【殺生とすくい】(『シティライフ』令和3年7月10日号掲載)

 ニュースで、人里に降りてきた熊が「駆除」されたと報じられていました。寺近くでヘビが出たことを知った娘が「倒して」と依頼してきました。部屋にいた蚊を「と(取?獲?)って」安心する私。どこにも「殺」の文字はありませんが、結果として生物たちの命が奪われていきます。これらは他の命を奪うのはいけないと知っての婉曲表現でしょう。
 殺生は仏教において最大の罪とされます。もちろん「生きる為には仕方無い」との反論もあるでしょう。
 それでもやはり「殺生は許される。やっても良い」とは誰も言わないはずです。
 誕生により私は地球の一角に割り込みました。その後、生きる為に他の命を奪い、環境を傷付け続けています。正に「地獄の有り様」と申せましょう。仏様はそのことに気付かない私を放っておけず、だから私を「すくう。殺し殺されることのない世界…浄土に生まれさせる」と誓われました。命を食べずには生きていけない私に出来るのは、せめて無益な殺生を避けることだけです。
 不殺生は仏様の願いでありました。

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【達観出来ない人生】(『シティライフ』令和3年6月12日号掲載)

 死にたくないですよね。出来れば長生きしたいものです。
 で、伺います…「長生きしてどうしますか?」 
  いろいろなお答えがあるでしょうが、突き詰めていくと「命ある限りはとにかく生きるんだよ」との答えに行き着くのでしょう。
 「命ある限り生きる」とは「命尽きれば死ぬ」ということで、どちらも同じ意味です。私達は知らぬ間に随分と人生を達観しているのかも知れません。
 「生きる。今をただ生きるのだ」その思いあれば、「死ぬる。今ただ逝くのだ」と死を受容出来るはずです。でも現実の私は「じたばたと生きて、じたばたと逝く人生」しか歩めそうにありません。
 阿弥陀仏は、生死に苦悩する私の為の仏様です。だからこそ「命の長短」「人生の良し悪し」…それらを比較・採点なさいません。
 歳は取っても、今日は私にとって人生初めての一日。仏様は「どう生きても良い。ただ恵まれしこの大切な一日をどうか感謝の中でしっかりと過ごしておくれ」と願われ、私に寄り添っていて下さいます。

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【罪悪感無し】(『シティライフ』令和3年5月8日号掲載)

 極悪人のことではありません。「健康に良い。ダイエット中でも大丈夫!」…そういった健康意識の高い人にも適した食品を「罪悪感無し(=ギルトフリー)食品」というのだそうです。
 でも食べ物とは全て動植物、又はそれらを加工したものです。私達が「美味しくて健康に良い」と思いつつ食品をほおばる裏に、健康どころか命奪われていく生き物の存在があります。
 にもかかわらず罪悪感無しと言い切られては、食べられる側はたまったものでありませんね。
人は生きる為に食べなくてはならない、なのに「何を食べるにも他の命を奪った罪悪感を忘れずに」では、とても食事が出来ないよ!
 ならば、せめて食事の際には私の為に犠牲となった命に対し、深い感謝の思いから、手を合わせ「頂きます」と申しましょう。
 自分は手を下さず、故に気付かぬうちに他の命を奪い続ける私だからこそ、仏様はどうか合掌し、念仏申してくれよとおっしゃいます。それが他の命への最低限のマナーであるよと教えて下さいます。

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【宿命とは?】(『シティライフ』令和3年4月10日号掲載)

 宿命を信じますか? 「今の私の境遇は前世から決まっているので、逃げることも変えることもできない」…そう受け入れられますか。
 幸も不幸も全て私が生まれる前に決まっていたのだ…そう受け止め、全てをあきらめられたら本当に楽です。今置かれた私の状況に私は責任がないのですから。
 でも、一度きりの人生、簡単にはあきらめられませんよね。だからこそ私は納得出来ず苦しむのです。
 私には前世、また後世のことはわかりません。でもわからないと不安なのです。そんな私の気持ちを見抜かれた仏様は「我に任せなさい」とおっしゃいました。そのお言葉を素直に頂き、任せきれたとき、どうにも出来ない問題が我が心から離れていきます。そこに安心が恵まれます。
 前世後世がわからなくても、私は今生きている…その私の将来を変えられるのは私だけです。その為には行動を起こしましょう。
 仏とは漠然とした私の不安を取り除き、今の私の為すべきことに集中させる「おはたらき」と受け止めて下さいませ…。

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【私の修正・調整は出来てる?】(『弘教寺だより』令和3年3月号掲載)

 また時計の話題で恐縮です。…先日の御通夜法要でのこと。式場の読経卓にはデジタル時計がありました。でも、その時計が進んでいるようです。「これ電波時計? でも2分も進んでる…長く電波受信が出来てないんだな」。読経が終わった時間はいつもより早めだったので、その分長めに御法話をお取り次ぎさせて頂きました。ちょっと時間オーバーだったかなと思いつつ、控え室に戻ると、掛け時計も進んでいます。あれ?…ケータイで時間を確認して『あぁ』のため息がこぼれました。私の腕時計が遅れていただけだったのです。思えば「随分長い御法話」を致しました…。
 私は性格的に時刻に敏感です。だから我が腕時計は頻繁に時報合わせを行います。電池が弱っているなどとは全く思いもしませんでした。我が十六年間使用の腕時計は「電波時計よりも正確」なのです。思い込めばそうなります。「いつも私は正しい」のです。
 時刻はすぐに修正できます。でも生き方・考え方についてはどうでしょうか。仏法による不断の調整が必要ではないでしょうか。「私=正」の凝り固まった思考ほど恐ろしく、我が人生を歪めてしまうものはないのです。

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【生き方を問わない】(『シティライフ』令和3年3月13日号掲載)

 阿弥陀仏は私の生き方を問いません。でもそう伺うと、「何したってよい」また「何もしなくてもよいのか」と思うのが私です。
 生き方を問わないとは、真面目に一生懸命生きている(と思い込んでいる)私に向けられた言葉です。
 私は辛い思いを抱えながら日々精一杯生きています。しかし自らの行動が本当に正しいのかどうかはよく分かっていません。それを決めているのは不完全な存在である私や他人です。
 結局のところ、私達は「多分、正しい」との判断で生きているに過ぎません。
 何をしてもよい、また何もしなくてもよいはずはありません。でも、たとえ「これが本物の人生だ」とお手本を示されても、実際にそう生きられなければ、かえって私には負担となります。他の生き方など出来ない私は戸惑うばかりです。
 生き方に注文を付けず、どうあっても私をすくう、悟らせると誓われたのが阿弥陀仏です。「私を決して空しく命終わらせない」仏様です。その御慈悲に感謝しつつ、今をしっかりと生きて参りましょう。

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【なぜ仏に成る?】(『弘教寺だより』令和3年2月号掲載)

 故人様の法事で、御写真を安置して、そのお顔を見ると安心できる、久しぶりに会えたよう気がして嬉しい…そのようなお気持ちになるお方は多いと思います。
 でも将来…「自分の法事」で、自分の写真を安置して勤められたときに、家族が「会えて嬉しい」と喜んでくれるかどうかはわかりません。『とにかく口うるさい親父だったからな』と言われたりして。そんな光景を想像すると怖くなります。
 なぜ阿弥陀仏は我を死後に仏と仕上げるのか…なぜ故人のままに、また想い出の存在にしておかないのか? 一つには故人と遺された者には様々な愛憎関係があったからです。素直にその人の死を悲しめない人々も多く存在することでしょう。
  故人が生前に遺族とどのような関係であったとしても、煩悩を滅し、仏と生まれられたのだから、すべての人の死の後に仏と仏子(=遺されし者)の関係が新たに生まれます。苦悩の人生を歩む遺されし者が心配でならなくて、寄り添い、導き続けて下さいます。故人をそんな仏様と頂くとき、遺されし者全てが無条件で手を合わせることが出来るのです。

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【行き違う思い】(『シティライフ』令和3年2月13日号掲載)

 人は一人では寂しいのです。だから家庭(仲間)を持とうと考えます。そしてその想いが叶った…でも年月経つといろいろな問題が起こってきます。
  皆本心では仲良くしたいのです。だから相手のために良かれと思って苦労をいとわず、せっせと行動します。そしてその結果…感謝されると思っていたのに、反応は思わぬものであった。一生懸命の方向が、少しだけズレていたのでしょう。さらに相手に喜んでもらえるようと努めても、なぜか笑顔は返ってこない。
 もう引き下がれません。だって、良かれと思ってやっているのですから。
「私はいつも一生懸命」…その思いこそが、周囲の負担になっていきます。「あなたのため」も結局は煩悩。相手よりも自分の気持ちを優先しているのです。
 精一杯なのになぜ?…仏様は苦悩する私を案じて「煩悩故に苦しむあなたを放っておけない。仏としてあなたの苦悩に寄り添う」と。仏の慈悲心に触れたとき、相手の気持ちにそっと、もっと寄り添いたいという誠の心が生まれます。

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【だまされないように…】(『弘教寺だより』令和3年1月号掲載)

 トイレの時計がずいぶん進んでしまうので困ってしまい、ならばということで3分ほども遅らせることにしました。これで徐々に正確な時間に近付くだろうとご満悦。そしてここに意外な効用が…。お参りの準備で急いでいるときにトイレで時間を確認すると、「ああ、まだ大丈夫だ」と心が落ち着くのです。そしてお察しの通り、トイレを出た瞬間から他の正確な時計に焦らされることになります。時計が遅れていることは私にもわかっているのです。でもその時計を見ると安堵の思いが沸き起こって、それは止められないのです。
 結局、脳が時計の針にだまされているのです。脳って人間の臓器の中で別格とも言える優れた働きを持つ存在ですが、割と簡単にだまされるんですね。いえ、私だけでしょうか?
 そんな自らの脳にだまされてはいけません。時計は遅れているのだから安心などしていられないのです。同様にまだ十分若い、健康だといって油断して生活していてはならないのです。
 人生の時間は有限…とはいえ、残り時間はまだタップリある。そう思い込んでいる脳にだまされてなるものか。
 その為にはやはり今年一年 仏法を頼るしか他にないようです。

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